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ALADJINを聴覚障害児教育の領域から読み解く

当事者の立場から

森 壮也 先生(JETROアジア研究所)

森壮也先生の写真

森 壮也先生

 今まで聴者の方のコメントでしたが、今回のシンポジストの中では私が唯一のろう者です。手話を日常的に使用しています。手話については、日本のみならず、フィリピン、アメリカ、アフリカのケニヤ等の手話に対しても音韻論、形態論、統語論などの研究をしています。

 ALADJINは、残念ながら真の意味での言語評価とはなっていません。音声言語の評価に限定されたものであることを、はっきり明確に記述する必要があると思います。
 ろうの子どもはバイモーダル・コミュニケーション、手話も音声言語も混在している言語状況にあります。それが一般的ですが、音声言語側面だけをとらえているだけに過ぎず、子どもが本当に持っている言語力の測定評価とは言えません。子どもの言語力をきちんとはかるためには、手話の力を無視してはできません。手話評価に困難があったとしてもです。つまり、これを言語力の評価としてしまうことは、子供の能力を不当に評価する方法が一人歩きしてしまう危険性があるということなのです。

 次にALADJINを用いた研究成果について。スクリーニングの次には早期療育を始めることが重要だとしています。ところが、この早期療育も音声言語に限定されています。医師、ろう学校が親御さんにきちんと手話に関する情報提供できるかというと、ほとんどできていません。結果、子供の能力が不当に評価される危険性が残ります。親がろう者である場合、ろう児は子供時代から、手話が十分周りにある環境で育ちます。聴者の親が90%、ろう者の親をもつ者が10%と少数ですが、それだからといって、考慮しないでいいことにはなりません。ですから言語の早期療育もALADJINのままでは、結局は、音声言語に偏っていく誘導がされてしまう危険性があるのです。また、子どもには視覚的言語の力がありますが、今回の評価では視覚的方法は補助的手段としてのみの評価です。子どもの親の90%が聞こえることから親御さんたちは、視覚的手段方法についてよく知りません。したがって親は自分と同様にしゃべれるようになってほしい気持ちから、自分の子どもの教育を進める。それでよいのかということなのです。

 福島邦博先生からオートノミーの話がありました。当事者の意見を尊重するということでした。しかし、そのためには、きちんとした情報提供が無ければ、当事者判断はできるものではありません。

 調査対象として、0〜12歳程度、また、カッコで4〜12歳となっていますが、その後はどうなっているのでしょうか。簡単に、語彙、単語だけではコミュニケーションできない状況が実際にやってくるのは思春期になってからです。そこで行き詰まりを感じる聴覚障害者をたくさん見てきました。それなのに、その世代を調査研究に含めなくて、よいのでしょうか。聴者の場合は音声日本語のみで問題はないですが、ろう児の場合は、音声言語と手話、どちらかだけを選ぶのではなく、両者の言語を持って成長していきます。にもかかわらず、音声日本語のみの調査をしていることに疑問を感じます。子どもたちは手話と音声言語の2つの言語環境をリンクさせながら、両者を成長させていきます。片方に偏りをもった調査だと、今後の見通しを誤っていくのではないでしょうか。言語には、手話もあります。日本語もあります。それがまるで日本語だけであるかのような誘導があることを残念に思います。

 アセスメント、子どもの言語評価については倫理性が非常に問われます。大学の倫理審査委員会を通っているということですが、これは方法についての倫理が認められただけです。成人の聴覚障害者、ろう者からは違った意見が聞かれるのではないかと思います。その視点が欠けていると思います。
 ろうの子どもに大切なのはなにか。くり返しになりますが、言語力です。日本語があり、手話がある。この両者がある。そして、その両者を併せた言語力の測定が重要です。日本語の評価だけに偏らないことが重要です。