福島研究室/バリアフリープロジェクトFUKUSHIMA Lab. Barrier Free Project

マンスリーレポート

トークイベント「副音声活弁と字幕が作り出す新たな映画の世界」報告

 「バリアフリー映画」というものをご存知だろうか? 「バリアフリー映画」とは、一般的には、視覚や聴覚に障害のある人にも映画を観てもらうため、楽しんでもらうために、通常の映画に副音声解説や字幕を付け加えた映画のことを指す。したがって、そこでは、見えないことや聞こえないことを「どのように補助するのか」といった技術論を避けて通ることはできない。
 と同時に、わたしたちには「技術論だけでいいのだろうか」という思いもある。映画の「バリアフリー化」の試みは、これまで主要なオーディエンスとして考慮されてこなかった人びとを招き入れることで、映画のあり方そのものを問いなおし編成しなおしていくような可能性を開いていくのではないか。また、この点について、現在、映画の「バリアフリー化」に関わっている人たちはどのように考えているのだろうか。

 以上のような問題意識から、オープン・キャンパス第1日目の5月29日、「バリアフリー映画作成事業」 ★1)に携わった方々をシンポジストとしてお招きし、「副音声活弁と字幕が作り出す新たな映画の世界」というテーマでトークイベントを開催した。
 まず、イベント前半では、「絵の中のぼくの村」という映画のバリアフリー上映が行われた。この映画は、1996年度第46回のベルリン国際映画祭にて銀熊賞を受賞した作品で、2008年に、「ぐるりのこと。」「花はどこへいった」「猫の恩返し」「THE CODE/暗号」とともに「バリアフリー化」されることになった。「バリアフリー化」にあたっては、なんと監督の東さんご自身が音声解説や字幕の原稿をまとめ、音楽や効果音などの指示を行ったそうだ。
 イベント後半では、「絵の中のぼくの村」監督の東さん、プロデューサーの山上徹二郎さん(映画製作・配給会社シグロ代表)、今回の「バリアフリー化」にあたって副音声活弁を担当された活動弁士の佐々木亜希子さん、世田谷福祉専門学校教員でNHKの手話キャスターでもある飯泉菜穂子さんの4名のシンポジストにより、「バリアフリー映画」の面白さや技術的課題、さらには映画の可能性についてフリー・ディスカッションが行われた。

★1)正式名称は「映画活弁士の活弁手法を活かした視覚・聴覚障害者のための副音声の開発ならびに製作事業」。平成20年度障害者保健福祉推進事業(障害者自立支援調査研究プロジェクト)のもと採択された研究プロジェクトの一つで、先端研バリアフリー分野からも、大河内直之(特任研究員)と福島智(教授)が研究員として関わっている。

 個人的に興味を惹かれたのは、映画監督の東さんと活動弁士の佐々木さんとでは、同じ「表現する側」にいながらも、映画のシーンに対する介在の仕方が異なっており、その違いが、副音声活弁の「文末表現」において象徴的に現れているように思われたことだ。すなわち、東さんは、映画のシーンを「現在形(テイル形)」で表現することにこだわりを持っている。これに対して、活動弁士である佐々木さんは「現在形(テイル形)」ではなく、「過去形(テイタ形)」で表現する方がしっくりくると言う。  東さんは、映画監督にとって映画とはあくまでも「これから作り出していくもの」として自分の前にあるのだと主張する。つまり、13年前に公開された「絵の中のぼくの村」のような映画に副音声解説や字幕を付けていく場合であっても、東さんはスクリーンに映し出される一つひとつのシーンを「今まさに起こっている出来事」として捉えているのだろう。だからこそ「現在形(テイル形)」で表現することにこだわったのではないか。
 これに対して、活動弁士である佐々木さんの仕事は、通常、サイレント映画を観ている観客を相手に、その映画の内容を語りで解説したり表現したりすることにある。彼女の仕事はあくまでも映画の内容について説明することにあり、その場合、映画は、「これから作り出していくもの」というよりは「すでに作り出されたもの」として、あるいは一つの完結した体系を持ったものとして彼女の前にあるといえる。映画の作品世界を自分なりに解釈し、監督の思いや自らの主観を繊細に織り込みながら、作品について語っていくという活動弁士の立場に立てば、読みは語りに先行して起こっていることになる。結果、映画に副音声解説を付けていく際、「過去形」を用いる方が感覚的にしっくりくるのではないか。以上は、あくまでもわたしの一方的かつ乱暴な解釈に過ぎない。だが、バリアフリー映画にとって「観る(読む)」側であると同時に「伝える(語る)」側でもある佐々木さんのような役割が肝心であり、その彼女がシーンにどのように介在していこうとしているのかという点は、やはり興味をそそられる。
 さて、「絵の中のぼくの村」の「バリアフリー化」にあたっては、最終的に「現在形(テイル形)」が多く用いられることとなった。それによって、映画全体を通して、シーンを広く見回した表現が作られている。逆に言うと、シーンの中に映っているさまざまな情報を積極的に捨象して、登場人物だけに注目するような表現はさほど多くない。そのためなのか、オーディエンスはシーンとの間に一定の距離を感じられるようになっている。では、もし「現在形(テイル形)」ではなく「過去形(テイタ形)」が多く用いられたなら、どうなっただろうか。「文末表現」の違い一つが、また異なる映画体験をわたしたちにもたらすのだろうか。そこに「バリアフリー映画」の面白さと可能性の一端を見るとともに、今回は、作品世界にたいする東監督の視点のおき方やパースペクティヴのとり方に上手く引き込まれてしまったようで、一オーディエンスとしては少し悔しい思いもしてしまうのだ。

 なお、シグロシアターというサイトで、バリアフリー映画の動画配信を行っている。現在配信しているのは字幕版のみだが、副音声版の配信についても準備が進められているようだ。今後の進展に期待したい。

(飯野由里子)