福島研究室/バリアフリープロジェクトFUKUSHIMA Lab. Barrier Free Project

マンスリーレポート

特別シンポジウム「『バリアフリー』でいいのか?!」報告

 2009年2月19日、和光大学の篠原睦治氏(現代人間学部教授)をお招きし、「『バリアフリー』でいいのか?! ——大学の『バリアフリー』を問い直す」というテーマでシンポジウムを開催した。篠原さんは、大学が率先して「バリアフリー化」を進めている昨今の流れに対し、「懐疑」的な立場に立っているという。では、篠原さんの抱く「懐疑」の中身とはどのようなものか? シンポジウムという場で、この点についてもう少し詳しくお聞きしたいという思いがわたしたちにはあった。

1.篠原さんの「気がかり」

 大学における「バリアフリー化」推進の流れに対して篠原さんが抱いている「懐疑」。それを、わたしなりに要約してみると次のようになる。

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「障害者」も大学教育を受けられるようになる。大学教育を受けやすくなる。それはそれでいいことだろう。だが、「障害者」が大学で教育を受けられる状況、受けやすくなる状況を作り出そうとするとき、わたしたちはテクノロジーや設備の充実、サービスの充実という解決策に頼りすぎているのではないだろうか。テクノロジーが発達していなかった時代、設備やサービスが不十分であった時代、わたしたちは「その場、その時の関係性」(こうした関係性を、篠原さんは「生身の人間の肌身の関係」と表現するのだが、わたしはこの表現はいろんな意味で問題だと感じている。この点についても、今後、議論したところだ)の中でさまざまな「解決策」を編み出してきたはずだ。「バリアフリー化」が社会的に「望ましいこと」として進められていく一方で、「『その場、その時の関係性』において解決していく」という「すべ」が軽視されているのではないか。

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 つまり、篠原さんも基本的には、「障害者」が大学で教育を受けられる状況、受けやすくなる状況を作り出していくことは「望ましいこと」だと考えている。しかし、そうした状況が、「大学」の側から提供される「設備」や「雇用関係に基づく人的支援」、「テクノロジー」に頼りすぎた「やり方」で実現されてしまっていることに対して「懐疑」、というか「気がかり」を抱いているようだ。

2.人それぞれ「できなさ」や「苦手さ」はあるけれど・・・

 さて、今回のシンポジウムでは、主に二つの論点をめぐりやり取りが行われた。

 一つ目の論点は、「その場、その時の関係性」に参与している者たちの間の「非対称性」についてだ。

 たとえば、篠原さんは、自分は手話ができないため、手話を母語とするろう者と話すためには、手話通訳を必要とする。そして、そのことについて「少し淋しく」感じているという。彼にとってみれば、まず先にあるのは、「聞こえない」者と「聞こえる」者の関係である。そして、手話とは、両者がコミュニケーションするための「方法」の一つに過ぎない。手話でなくとも、身振りや手振り、表情で表現することもできるし、お互いが共有する「書き言葉」、すなわち「筆談」でやり取りすることもできるではないかと問う。「聞こえる」篠原さんと「聞こえない」ろう者は、「筆談」を通してやり取りをする。その場において、篠原さんは相手の耳が聞こえないという「障害」につきあうことになり、相手は篠原さんの「乱れに乱れる文字、書くのに遅すぎるスピード」という「障害」につきあうことになる。このようなやり取り、関係性の中から、ある種の「対称性」が生まれる。篠原さんはそう考えているようだ。

 これに対して、わたしたちの側からは、ある特定の状況において「対称性」が成立しているからといって、それを本当に「お互い様」だといってしまえるだろうか、という疑問が提出された。確かに、篠原さんのいうように、わたしたちにはそれぞれ「できないこと」や「苦手なこと」が何かしらある。しかし、そうした「できなさ」や「苦手さ」の結果がどう働くのかは、何が「できない」のか、何が「苦手」なのかによって大きく異なる。たとえば、「乱れに乱れる文字、書くのに遅すぎるスピード」という「できなさ」や「苦手さ」があっても、篠原さんは、さまざまな関係性の中に、ある程度「自由に出入りすること」ができる。これに対して、手話を母語とするろう者はどうだろうか。この場合の「できなさ」や「苦手さ」は、彼または彼女がさまざまな関係性の中に「自由に出入りすること」を大きく妨げてきたのではなかったか。

 人それぞれ「できなさ」や「苦手さ」はある。それはその通りだろう。しかし、そうした「できなさ」や「苦手さ」は、その人の人生の選択肢に対してどのように働いているのか。その働き方の機能に注意を払わなければ、わたしたちは「できること/できないこと」をめぐり存在している非対称性を見過ごしてしまうことになるだろう。そもそも、「障害者」に対するさまざまな支援サービスの制度化は、そうした非対称性を緩和させることを目的としていたのではなかったか。

3.「バリアフリー化」が生み出す新たな問題

 とはいえ、そうした「支援サービスの制度化」が、新たな問題を生み出してしまっているのではないかという篠原さんの「気がかり」も尤もなものだ。これは、今回のシンポジウムでやり取りされたもう一つの論点でもある。

 この点について、大学における「バリアフリー化」という文脈に引きつけて考えてみよう。たとえば、「障害者」が大学で教育を受けられる状況を作り出していくこと、受けやすい状況を作り出していくことを目的に、「大学」側が率先して「バリアフリー化」を進めていこうとしているとしよう。この時、その作業を「大学」側に任せきりにしてしまうと、「バリアフリー化」を通して解決すべき問題の定義を「大学」側が行い、その解き方を「大学」側が与えるというような事態が起こってしまうかもしれない。結果、「大学」側の定義にはあてはまらないような問題、「大学」側の解き方ではうまくいかないような問題が、数多く残されてしまうことになる。

4.誰が問題を定義するのか?

 ここには、大学の「バリアフリー化」を通して解決すべき問題を、いったい誰が、どのように定義するのか、という権力の問題が関わっている。

 これに対して、「だからこそ、当事者が問題を定義し、その解き方の可能性を探っていくというプロセスを、いわゆる『現場』からどうやって持ち込んでいくかが重要になってくるのではないか」という意見もある。つまり、「大学の『バリアフリー化』をめぐって解決する問題は何か」を定義する一方的な権力を「大学」の側に認めず、たとえば、「その場、その時の関係性」で培われてきた、生きられた「知」や「すべ」を「バリアフリー化」のプロセスに反映させていくことも可能ではないか、ということだ。

 しかし、篠原さん自身は「バリアフリー化」と「その場、その時の関係性」を相矛盾するものとして捉えているようで、この見解には賛同できない様子だった。どうやら篠原さんは「その場、その時の関係性」、彼の表現を用いれば、「生身の人間の肌身の関係」にかなり強い思いを込めているようなのだ。その「思い」については、またの機会にじっくりお聞きしたいところだ。

5.「大学」の役割とは?

 また、大学における「バリアフリー化」を考えるにあたっては、それが含みもつ「規律的権力」に注意を払う必要もあるだろう。たとえば、昨今、「活力ある社会」といったフレーズを耳にすることが多くなった。ここでの「活力」とは、一応は、単に「身体的に活動的である」とか「労働力として働ける」とかいうことではなく、「社会的、経済的、文化的、精神的、市民的な活動に参加すること」を指しているのだとされている。けれども、わたしなどは、「活力ある社会」にとって「役に立つ人」と「役に立たない人」という新たな二項対立が生み出されていってしまうのではないかと少し心配だ。

 「大学」の話しに戻ろう。実は、「大学」も、そうした「活力ある社会」の実現に資する役割を担っている。たとえば、教育活動を通して「活力ある社会」に必要な人材の育成をすること、あるいは、研究活動を通して「多様な」人びとの「活力ある」社会参加を「支援」するための新たなテクノロジーや知を開発する、といったようなことだ。それは「大学」の役割の一つでもあるだろう。その一方で、「だが、それだけでいいのか」という思いがわたしたちにはある。「活力ある社会」において生み出される社会的価値そのものを相対化していくこともまた「大学」の役割ではないのか、という思いがあるのだ。

 篠原さんも同様の問題意識を共有しているようだ。だからこそ、「『バリアフリー化』礼賛のなかで『バリアフリー化』を問い直す」必要があると主張されているのだろう。しかし、「バリアフリー化」の何を、どう「問いなおし」ていくのか。この点について、篠原さんとわたしたちとの間には、そしておそらくわたしたちの間にも、意見の相違がありそうだ。残念ながら、時間の都合上、これ以上踏み込んだ議論はできなかったのだが、「バリアフリー化」の何を、どう「問いなおし」ていくのかについては、今後、議論を深めていきたいと思っている。

(飯野由里子)