福島智の研究環境
全く目が見えず、全く耳が聞こえない
今回は、私たちの研究チームのリーダーである福島教授の研究環境についてご紹介します。なぜ、1人の研究者の研究環境にスポットライトを当てるのかといえば、それは福島が「全盲ろう」と呼ばれる障害を抱えているからです。全く目が見えず、全く耳が聞こえない福島が研究という仕事を進めていくことは、いかにして可能になっているのでしょうか? その答えの中に、バリアフリー社会の実現に向けたヒントが隠されていそうです。
全盲ろうの状態とは?
初めに、「全盲ろう」という状態について基礎的なことを確認しておきましょう。まず、心身機能についていうと、視覚と聴覚の双方に障害を併せ持っている状態が「盲ろう」であり、そのうち視覚も聴覚も完全に失われた状態が「全盲ろう」ということになります。また、行為や活動の場面に着目すると、盲ろう者は一般に、「移動」、「情報入手」、「コミュニケーション」等に大きなバリアを抱えているといわれます。全盲ろう者の置かれた環境について福島は、テレビの音声も画面も消してしまった状態、つまりテレビのスイッチを切ってしまった状態、という比喩を使って説明しています。つまり、そのままでは、テレビから伝わってくるはずの世界との接点が完全に失われてしまう状態ということです。
ですから、盲ろう者が世界との接点を回復し、社会の中で活動していくためにはさまざまな支援や工夫が必要です。とりわけ「移動」と「コミュニケーション」にまつわるバリアを取り除くために必要となるのが、通訳介助者の存在です。通訳介助者とは、外出等の際の移動介助と、他者の言葉や環境情報等を伝える通訳業務をともに行う支援者のことです。
指点字で情報を受けとる
福島は主なコミュニケーション手段として、彼の母親によって考案された指点字(両手の指を点字タイプライターのキーに見立ててタッチすることで、文字情報を伝達する方法)を使っています。盲ろう者のコミュニケーション手段には、障害の程度や受障時期等に応じて、触手話、弱視手話、指点字、指文字、手のひら書き文字等、さまざまなものがあります。たとえば、もともと単独の聴覚障害で手話を使っていた人が視力を失って盲ろうになった場合は、それまで使っていた手話をベースにした触手話が使いやすいわけです。福島の場合は、9歳で失明して単独の視覚障害になり点字を使っていて、その後18歳で聴力を失って全盲ろうとなりましたので、点字をベースにした指点字という手段が適合的だったと考えられるでしょう。
日々の業務
福島の仕事は学内での会議や講義、ゼミ、研究会等をはじめ、国内外での講演、学会やシンポジウムへの参加、企業や行政との共同研究、学内外からの各種相談への対応、国・自治体の審議会等への参画、バリアフリーや障害の問題をめぐる社会的活動等、多岐にわたっています。こうした活動を支えているのが、指点字の高いスキルを持った通訳介助者です。通訳介助者の役割には、対面している他者との会話や電話の通訳、周囲の状況説明、自宅への送迎、出張への同行等が含まれますが、大学という職場の性質上、コミュニケーションの内容も高度で専門的なものになりますから、それに的確に対応できるスキルが求められるのです。
現在、大学で福島が仕事をする場合、主に4名の指点字通訳者が中心に実働しています。実際の通訳業務は主に2名のペアで行いますので、この4名のうち2名が交代で通訳を行うことになります。さらに、出張や夜遅くまでの会合等にも柔軟に対応しなければならないので、この4名のほかに3・4名のバックアップの通訳者を確保しています。
これらの支援者は、もちろんボランティアではありません。通訳介助という仕事をするために勤務している労働者です。では、その給料は誰が負担しているのでしょうか?
いうまでもなく、福島が大学で研究活動を遂行するために必要な存在であるわけですから、通訳・介助者の給料は大学が負担しています(厳密には大学が直接雇用しているのではなく、人材派遣会社と大学が契約を結び、通訳・介助者はその会社から大学に派遣される、という形態をとっています)。また、出張の際にも、福島は通常の教員と同じ扱いですが、通訳・介助者については業務遂行上不可欠な存在として、その旅費を大学が用意することになっています。このシステムは、2001年に福島が先端研に着任したときに、前任校の金沢大学での同様の実績を踏まえて福島が東大・先端研側と話し合いを重ねて実現したものです。この制度的保障によって、福島が職場において主体的に業務を遂行することが可能になっています。
このほか、テクノロジーも福島の業務上のコミュニケーションを支えています。それは、後述の電子メールの利用という手段です。かつては他者との連絡にはすべて通訳・介助者者が必要でしたが、電子メールが普及し手紙やFAXの用途が代替されるようになったことで、媒体を通じたコミュニケーションを福島が独りで行うことができるようになりました。またこれは、機密性の高い事項についても、福島が直接対応できるようになったことを意味します。こうしたことには、僅かではあっても、通訳・介助者の仕事やストレスの軽減に寄与する可能性が含まれているといえるでしょう。
論文の執筆
研究者にとっての仕事は、いうまでもなく研究の遂行とその成果の発表です。福島の専門の研究領域では、文献資料等を通じた情報の収集と分析、それに基づいて新しい知見を提出する論文の執筆、というのがその主な内容です。そこではもちろん文字を読んだり書いたりすることが必要になるわけですが、盲ろう者のこうした「情報処理」に関わるバリアの除去には、テクノロジーが大きな役割を果たしています。
電子支援技術の発達により、福島は論文等の文書を独りで作成することが可能となりました。スクリーンリーダー(画面上の情報を音声化・点字化するソフト)や点字ディスプレイ(画面上の文字情報を1行ずつ点字で出力する機器)を利用して、全盲ろうの状態であっても入力した文字を確認しながらパソコンや点字携帯端末で文章を書くことができるようになったからです。また書かれた文書を読むことも手軽になりました。同様に、これら機器を利用することで、電子化・テキスト化されているデータであれば点訳等の必要がなくそのまま読むことができるようになったからです。さらに、インターネットの発達により、福島が直接検索し入手できる情報が飛躍的に増加しました。このことは、独自の視点で主体的に情報を収集することが求められる研究者にとって、決定的に重要な変化だといえます。
ちなみに、福島の利用するICT環境ですが、以前はパソコンと点字ディスプレイを利用していましたが、近年はもっぱら「ブレイルセンス」と呼ばれる点字携帯端末を利用しています。これは、機器1台のみで、漢字かな交じり文の読み書き・電子メールの送受信・ウェブページへのアクセス・辞書の検索・点字図書のダウンロードと閲覧・録音等が可能で、しかも持ち運び可能なモバイル機器であるため、場所や時間を選ばず常に情報にアクセスすることができます。したがって、福島は大学を始め、自宅・移動中・国内外の出張先・病院での治療中等さまざまな場所で、電子メールの送受信や文書処理、ウェブページへのアクセスを行っています。機器の利用時間は、1日10時間をはるかに超えている模様です。そのため、キーボードの劣化が激しく、およそ3・4か月に1回修理に出さなければならず、結局同じ機器を3台準備してローテーションさせながら、日常の業務を乗り切っています。よって、パソコンを使っていた頃に比べて、処理する情報量は格段に増えており、福島が自力で行える仕事量もますます増大しています。
とはいえ、こうした便利な機器が充実しても、通訳・介助者の役割がなくなったわけではありません。福島が作成した文書について、漢字等の誤字をチェックしたり、レイアウトを整えて見やすい形にしたりする作業には、やはり通訳・介助者の「目」が必要になります。点字化・電子化されていない文書を福島がアクセス可能な形式に変換するのも、依然として通訳・介助者の仕事です。さらには、検索エンジン等を使って大量の情報の中から必要なものを探し出す作業は、点字ディスプレイユーザにとって負担が大きいので、情報検索についても通訳介助者をはじめとした研究室スタッフの協力が不可欠です。
今後の課題
福島の研究環境は、2001年の先端研着任以来、人的にも物的にもかなり充実してきました。また、支援の制度的保障というシステムは福島だけに留まらず、東大で働く障害を持つ研究者全体に対して、拡張されてきています。今後は、この「東大モデル」ともいうべき支援システムを、社会にどのように広めていくかが大きな課題です。
また、望ましい支援の中身や制度のあり方についても、日々の実践を通じて問い続けていかなければなりません。通訳・介助者をはじめとしたこれら支援者については、いろいろな面での保障や社会的認知はまだまだ進んでいません。支援業務の重要性とその専門性を社会に対してアピールしていくことと同時に、支援者がやりがいと誇りを持って業務に従事できる体制を作っていくために、どのような取り組みが必要なのかを考えていくことも、重要な課題としてクローズアップされてきています。
また、技術的な面でいえば、一般に市販されている機器やアプリケーションは、まだまだ盲ろう者にとって使いやすいものになっているとはいえません。特に、福島のようなヘビーユーザにとっては、さまざまな機能をストレスなく利用できることが重要なため、触覚で利用しやすいハード・ソフトの研究が今以上に求められています。
このように、人、技術、制度といったそれぞれの領域の課題に対して、またそれらの望ましい組み合わせと関係を探求する研究に対して、私たちの研究室では積極的に取り組んでいこうと考えています。福島の事例からも分かるように、障害者を取り巻くさまざまなバリアは、人的・物的・制度的環境を整えることで解消・削減される可能性があります。私たちは、あらゆる人々にとって生活上のバリアの少ない環境をデザインし、作り出し、維持していくための研究を行うことで、バリアフリー社会の実現に貢献していきたいと考えています。
文責:大河内直之・星加良司
世界初・盲ろうの大学教授、福島智教授。9歳で視力、18歳で聴力を失う。
福島教授のコミュニケーション手段、指点字。両手の指を点字タイプライターの6点のキーに見立てタッチし、文字情報を伝える。
福島教授とにこやかに話す女性。通訳介助者(中)は、会話はもちろん、どんな姿かまで、実況中継する。
国際会議でスピーチする福島教授。二人の指点字通訳者が交代で会場の反応まで伝える。
ゼミミーティングの様子。福島教授の明るい声が響く。
福島教授が使うコンピュータ。メールやサイトを点字で読み、6点のキーを使い文章を書く。
ブレイルセンスU2ミニ。世界最小、最軽量の音声点字PDA。簡単に持ち運べる、例えるならスマホ。
デスクで話す、福島教授と通訳介助者。便利な機器ができても、誤字チェック、情報収集を始め通訳介助者の協力は欠かせない。
3号館5階にある点字書庫。福島教授が集めた蔵書がずらりと並ぶ。
点字プリンター。点字には漢字とひらがな・カタカナの区別がないので膨大な紙を使う。